2015年9月5日土曜日

「一般国民の理解が得られない」のダブル ミーニング

先般、五輪組織委員会は、「エンブレムはリエージュ美術館のロゴの模倣ではないが、一般国民の理解が得られない。そのためエンブレムを撤回する」という趣旨の発表をした。それにしても、「一般国民の理解が得られない」とは、奇妙な表現である。この表現には、巧妙なダブルミーニングが込められているように思われる。

組織委は、一般国民が何を理解したら、エンブレムを使い続けるつもりだったのだろうか。一般国民が「エンブレムはリエージュ美術館のロゴの盗用ではない」という点を理解したら、組織委はエンブレムの使用を継続したのか。確かに、弁護士や弁理士の解説を読むと、佐野研二郎氏がリエージュ美術館のロゴの著作権を侵害していることを立証するのは、困難のようである。しかし、それは重要な論点なのだろうか。

本当の所は、エンブレムの使用継続が難しくなったのは、佐野研二郎氏がデザイナーとしての信用を完全に失ったからである。リエージュ美術館のロゴとの類似性は、もはや関係が無い。

リエージュ美術館の件が一切無かった場合を仮定して上で、以下の仮想的な状況を考えてみよう。まず、佐野氏が殺人を犯していた場合はどうか。五輪エンブレム制作と無関係の殺人事件だからといって、エンブレムの使用が継続されることないだろう。他方、佐野氏が飲酒運転をしていた場合はどうか。この場合は、エンブレムの使用は継続されるだろう。

殺人と飲酒運転の違いは何か。それは、デザイナーとしての信用が決定的に毀損されたか否かの違いである。殺人事件はデザイナーとしてはもちろん、人間としての信用を毀損したため、エンブレムの使用継続は許されないのだ。しかし、飲酒運転はデザイナーとしての信用をそこまで毀損しない。

では、五輪とは別の仕事で著作権を繰り返し侵害していた場合はどうか。トートバッグのデザイン(佐野氏は部下がしたと述べているが疑わしい。事実ならば、その部下の名前を公表すべきである)や、五輪エンブレムの展開例(カンプ)での著作権侵害は、仮にリエージュ美術館の件が無かったとしても、デザイナーとしての信用を失墜させるに余りある行為である。このような複数の著作権侵害行為は、殺人事件と同様に、デザイナーとしての信用を決定的に失わせるものだ(もちろん殺人事件とは異なり、人間としての信用までは失わないが)

繰り返すが、リエージュ美術館の件とは無関係に、佐野氏がデザイナーとしての信用を失わせる著作権侵害行為をしたから、エンブレムの使用継続が不可能になったのだ。以上を確認した上で、「一般国民の理解が得られない」の意味は何だろうか。

一つ目の意味は、最初で述べたように、「五輪エンブレムはリエージュ美術館のロゴの著作権を侵害していない」ということを、一般国民が理解していないことである。確かに「エンブレムは著作権侵害ではない」と言う専門家たちの意見は正しいように思われる。そして、その点を理解していない一般国民も多いだろう。しかし、もはやその点は重要ではない。

二つ目の意味は、五輪とは別の仕事で複数の著作権侵害が発覚した佐野氏のエンブレムを使い続けることを、一般国民は受け入れられない、ということである。この理由は、縷々述べてきたように、デザイナーとしての信用を佐野氏が完全に毀損したからである。リエージュ美術館の件は関係がない。

組織委は上述の二つの意味を「一般国民の理解が得られない」に込め、佐野氏に対する責任追及の必要性をごまかしたように思われる。一見すると一般国民が無知だからエンブレムを撤回したとも解釈でき、他方で佐野氏の責任に言及しているようにも読めるのだ。

なぜ、組織委はこのような曖昧な表現をしたのか。これは推測だか、組織委は佐野氏にある種の弱味を握られているのではないか。現在、ネットで出回っている情報や報道内容を見る限り、エンブレム撤回の責任は、ほぼ佐野氏だけにある。五輪とは別件の、彼の仕事の不誠実な著作権侵害行為に、今回の事態のほぼ全責任があると言ってよい。それにも関わらず、組織委が曖昧な表現で佐野氏を庇ったのは、両者にある種の共犯関係があるからではないか。

もっともありそうなことは、今回のエンブレム選考が出来レースだった、ということである。選考委員長は「もっとも透明な選考だった」と自賛しているようだが、応募要件が厳しく100人余りしか応募しなかったようである。また、デザインに関する有名な賞の受賞者と、その選考委員が同じような顔触れというのも疑念を生じさせる。

何れにしても、佐野氏の責任を追及しようとしない現在の組織委には、自浄能力が無いように思われる。組織委員を全面的に入れ替えるとともに、第三者委員会を作って今回の件の経緯を詳しく検証すべきだ。