2016年2月22日月曜日

放送法4条の法的規範化はどうでもよい

放送法第4条を倫理規定としてではなく法的規範として適用し、場合によっては電波の停波もありうる、という総務大臣の発言は報道の自由を害すると批判されている。しかし、私にはそれはどうでもいいように思われる。彼らテレビ局関係者には、報道の自由や言論の自由を守る気概がそもそも無いからである。初めから無いものを守ろうとしても無意味だ。

例えば、SMAP解散騒動におけるテレビ局の報道姿勢を思い起こしてみよう。どう考えても、メリー喜多川氏とジュリー景子氏は厳しく批判されるべきであった。事務所の稼ぎ頭であり国民的大スターであるSMAPを、事もあろうに事務所幹部が公のインタビューでこき下ろしたからだ。少なくとも、彼らに対する批判はテレビで取り上げるべき代表的な意見の一つであろう。しかし、両氏を批判するテレビ局はついに現れることがなかった。

あの時、テレビ局は試されていた。そして、言論の自由や報道の自由なんかより金(ジャニーズ事務所との契約)の方が重要だと、彼らは高らかに宣言したのである。彼らの胡散臭さはみんな薄々感じていたけれども、それが一切の言い訳が出来ない形で白日の下にさらされたのだ。歴史的な瞬間だった。

たかが芸能スキャンダルに関して大袈裟な、と思う人もいるだろう。たしかに客観的に見て、メリー喜多川氏等も含めて誰も違法行為をしてないという意味で、SMAP解散騒動はどうでもいいことだ。しかしこの程度の騒動でさえ、テレビ局はこのザマである。もっと深刻な事態に対して、彼らは報道の自由を真摯に行使できるのだろうか。

彼らが政府与党に付け入られるのも自業自得である。いっそテレビ局は放送法第4条を根拠に、件の二人に対して批判報道をするよう総務大臣に行政指導をしてもらった方がいいのではないか。


2016年1月19日火曜日

連合が共産党を排除する理由

世に倦む日々さんの

民主党の労組系比例候補を見る - なぜ連合は共産党を拒絶するのか 

http://critic20.exblog.jp/25201742/
の感想

連合が共産党を排除するのは当たり前だと思います。両者の綱領を読めば、共産党は自由市場経済(資本主義)を究極的には悪として否定していますが、連合は否定していません。

共産党がそのように捉える理由は、窮乏化法則を根拠に貧困が原理的必然と考えているからでしょう。例えば、敗者の発生しないスポーツというのは存在しません。スポーツのルール上、敗者の発生は原理的に避けられない。共産党は、スポーツの敗者と同様に貧困も自由市場経済上では原理的に避けられないと考えています。現実のスポーツで負ければ単に悔しいだけだが、経済で負ければ死に直結する、従って自由市場経済は究極的には悪である。共産党の思想を要約すれば、このようなものでしょう。

連合はそのようには考えていません。彼らは貧困を交通事故のようなものと考えています。交通事故はエラーであり、ゼロにすることは原理的には可能です。事故がゼロになったからといって、自動車の運転や製造が不可能になるわけではありません(スポーツの場合、敗者が存在しなくなればそれはスポーツとして成立しなくなる)。今は事故をゼロにするための具体的な方法が存在しないため、毎年何千人と亡くなっていますが、ゼロにすることは原理的には可能なのです。貧困も同様に、自由市場経済のエラーです。人間の不完全性によって種々の貧困問題が発生しており、それを社会は解決しなければなりませんが、それは原理的にはゼロにすることが可能なのです。連合の思想は以上のようなものでしょう。

このような違いがある両者は、問題解決のアプローチも根本的に異なります。共産党のアプローチはスポーツの廃止でしょう。つまり、資本主義経済を廃止して共産主義化することです。連合のアプローチは、交通法規順守や自賠責保険、自動運転技術の導入です。つまり、所得再分配や福祉政策、教育の機会均等です。連合から共産党のアプローチを見れば、自動車を廃止して事故ゼロを目指しているようなものと捉えるでしょう。確かに自動車を全面的に禁ずれば事故はゼロになりますが、自動車の利用によるベネフィットも全て失うことになります(自由市場経済の経済的豊かさの消滅に相当)。

現在の共産党の綱領を読むと、さすがに旧ソ連の惨状に対する反省があるようで、共産主義化や社会主義化は時機が来るまでしばらく保留し、連合と同様に所得再分配等を重視することが書かれています。これはプロ野球でいえば、完全ウェーバー制の導入を目指すようなものです。

しかしこれは「他に解決策が無いから、仕方なく必要悪として自由市場経済を認めてやるよ。でも、いずれは廃止する」と言っているようなものでしょう。連合は、将来的には自動車を廃止したいと言う人たちと、仲良くやりたいと思いますかね?

しかも、共産党の人達はスポーツの勝者を恨んでいる。現実のスポーツの敗者は、まともな選手であれば自分の力不足を悔やむだけで勝者を逆恨みすることはないが、共産党の世界観から見れば、経済の敗者は死に直結し、しかもその競争から逃れる術も存在しない。その見方からすれば、勝者に強い憎しみを持つでしょう。連合からみれば、交通事故の被害者が自動車に何ら欠陥が無かったにも関わらず、自動車メーカーを逆恨みするように見えていることでしょう。

貧困はスポーツの敗者でしょうか。それとも交通事故でしょうか。私はもちろん後者です。yoniumuhibiさんは前者のようにお見受けしますが、どちらでしょうか。


 

2015年10月19日月曜日

維新の党分裂騒動における現執行部の正統性の検討メモ

橋下徹氏が維新の会の現執行部は無効と主張している。

http://lite.blogos.com/article/139181/
大阪系の国会議員を除名処分ってやってるけど、それ何の権限に基づいているんだい?維新の党の松野代表は任期切れでもう代表ではない。代表の任期切れに伴って執行部も任期切れ。今、維新の党には代表も執行部も不在の状態なんだ。松野氏たちは何をはりきってるんだろ?

彼の言うことは本当だろうか。維新の会の現執行部の除籍処分は法的有効性を有するか。特に、代表選を延期した点は、現執行部の正統性を失わせるか否か。共産党袴田事件の類推適用により、代表選延期の決定は有効であり、同時に現執行部の存在も正統性を有する、というのが私の結論である。

共産党袴田事件 
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/133-3.html
政党が党員に対してした処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばないというべきであり、他方、右処分が一般市民としての権利利益を侵害する場合であっても、右処分の当否は、当該政党の自律的に定めた規範が公序良俗に反するなどの特段の事情のない限り右規範に照らし、右規範を有しないときは条理に基づき、適正な手続に則ってされたか否かによって決すべきであり、その審理も右の点に限られるものといわなければならない。

上記判決を読むと除籍は、「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題」に当たるから、一見するとそもそも現執行部の正統性を問題としえない、と考えることもできる。しかし、上記判決では処分決定をなした執行部自体の正統性は問題としてないことを考えると、その正統性が問題となった今回の件に、上記判例は直接当てはめできない。ではどう考えるべきか。政党交付金が党員の一般市民としての権利に関わることを鑑みると、現執行部の代表選延期決定の有効性は、「処分が一般市民としての権利利益を侵害する場合」を類推適用して考えるのが妥当と思われる。すなわち、代表選延期決定の有効性は、「当該政党の自律的に定めた規範が公序良俗に反するなどの特段の事情のない限り右規範に照らし、右規範を有しないときは条理に基づき、適正な手続に則ってされたか否かによって決す」るのが妥当であろう。

そこで維新の党の規約を確認し、現執行部がなした代表選延期の決定が有効か否か、そしてその決定が現執行部の正統性を失わせるか否かを検討しよう。

維新の会の党規約 抜粋
https://ishinnotoh.jp/about/agreement/
(執行役員会)
第7条
本党に、次の各号に定める役割を担うため、執行役員会を設置する。
- 党運営に関する以下の規則について審議、決定する。
    - 代表選挙規則

(代表)
第8条
本党に、代表を置く。
- 代表の任期満了に伴う代表の選出は、党員による選挙によって行う。代表選出のための選挙は、代表の任期が終了する年の9月に行うことを通例とする。
- 前項に規定する代表選挙については、詳細を別途、代表選挙規則において定める。
本規約に定める機関の役員等の任期は、代表の任期に従うものとする。

上記より、代表選は9月に行うことが「通例」と表現されているため、状況によっては必ずしも9月に代表選を実施しないことも許されると解釈できる。維新の会に分裂騒動が起こっている以上、代表選を行える状況ではないためそれを延期するという現執行部の決定は、公序良俗に反するとは考えにくい。また、第8条に「本規約に定める機関の役員等の任期は、代表の任期に従うものとする」とあるので、代表選延期が有効ならば、連動して現執行部の役員全員も正統性を有すると言える。

以上より代表選延期の決定は有効であり、同時に現執行部の存在も正統性を有すると評価できる。

(追記 就任当初から無効論について)
このメモは橋下徹氏の発言(「松野代表の任期は切れているから現執行部の存在は無効」)に触発されて書いたが、驚くべきことに松野代表の就任当初から無効と主張している幹部も存在する。

http://sp.mainichi.jp/select/news/20151015k0000m010126000c.html
 馬場氏は、松野頼久代表が5月に選出された際、党規約で定めた党大会を経なかったことから就任は無効だと主張。国会議員や地方議員の過半数から党大会の招集を要求する委任状を集めており、24日に臨時党大会を開いて新執行部を選出し、政党交付金を分配する分党決議を行う考えを示した。24日に予定した新党設立の延期も検討する。

どういうことかと思ってちょっと調べた所、松野代表選出の具体的な手続きについて記述した以下の記事が見つかった。

http://www.jiji.com/sp/zc?g=pol&k=201505/2015051800689&pa=f
維新の党規約には、任期満了に伴う代表選選出の仕組みはあるが、任期途中で代表が欠けた場合の規定はない。幹事長室会議では「両院議員総会で過半数の賛成により新代表を選出できる」との規定案を急きょ作成。19日午前の執行役員会で了承されれば、同日午後に両院議員懇談会を開催。異論がなければ直ちに両院議員総会に切り替え、新代表選出に着手する方針だ。

そして実際に5/19に両院議員総会で松野氏が選出された。
 
http://www.sankei.com/smp/politics/news/150519/plt1505190038-s.html
 維新の党は19日、国会内で両院議員総会を開き、「大阪都構想」が住民投票で否決されたことを受け代表を辞任した江田憲司氏(59)の後任に、幹事長だった松野頼久氏(54)を選出した。

代表が任期途中で退任した場合の選出方法が規約に無かったというのは驚きだが、それでも冒頭で掲げた判例を類推適用して、この規約追加の有効性を「右規範を有しないときは条理に基づき、適正な手続に則ってされたか否かによって決す」ればよいであろう。

すなわち、任期途中で代表が欠いた場合に両院議員総会で過半数の賛成により新代表を選出できるという規定を、規約第7条第3項に基づき5月時点の執行役員会が追加したわけだが、この新規定やこれを追加した経緯は、公序良俗や条理に反しない以上、当然に有効である。

代表の任期についての別角度からの検討
維新の規約には以下の文言もある。

第8条第3項
代表の任期は、就任から3年後の9月末日までとし、重ねて就任することができるものとする。

松野氏が代表に就任したのは2015年の5月であり、就任当初、氏の任期は同年の9月までと発表されていた。しかし、この発表に関して規約やその他規則等に明文の規定がない場合は、執行役員会が代表選延期を決定した後に上記の規約第8条が補充適用され、最長2018年9月末まで代表の任期が延びるとも解釈できる。

松野氏が選出された時に適用された代表選挙規則やその他の細則の文書がネットでは見つからなかったので、詳細は不明だが、もしも任期についての規則が明文で定められていなかったとすると、上述の2018年まで任期が延びるという解釈も可能ではないだろうか。

2015年9月5日土曜日

「一般国民の理解が得られない」のダブル ミーニング

先般、五輪組織委員会は、「エンブレムはリエージュ美術館のロゴの模倣ではないが、一般国民の理解が得られない。そのためエンブレムを撤回する」という趣旨の発表をした。それにしても、「一般国民の理解が得られない」とは、奇妙な表現である。この表現には、巧妙なダブルミーニングが込められているように思われる。

組織委は、一般国民が何を理解したら、エンブレムを使い続けるつもりだったのだろうか。一般国民が「エンブレムはリエージュ美術館のロゴの盗用ではない」という点を理解したら、組織委はエンブレムの使用を継続したのか。確かに、弁護士や弁理士の解説を読むと、佐野研二郎氏がリエージュ美術館のロゴの著作権を侵害していることを立証するのは、困難のようである。しかし、それは重要な論点なのだろうか。

本当の所は、エンブレムの使用継続が難しくなったのは、佐野研二郎氏がデザイナーとしての信用を完全に失ったからである。リエージュ美術館のロゴとの類似性は、もはや関係が無い。

リエージュ美術館の件が一切無かった場合を仮定して上で、以下の仮想的な状況を考えてみよう。まず、佐野氏が殺人を犯していた場合はどうか。五輪エンブレム制作と無関係の殺人事件だからといって、エンブレムの使用が継続されることないだろう。他方、佐野氏が飲酒運転をしていた場合はどうか。この場合は、エンブレムの使用は継続されるだろう。

殺人と飲酒運転の違いは何か。それは、デザイナーとしての信用が決定的に毀損されたか否かの違いである。殺人事件はデザイナーとしてはもちろん、人間としての信用を毀損したため、エンブレムの使用継続は許されないのだ。しかし、飲酒運転はデザイナーとしての信用をそこまで毀損しない。

では、五輪とは別の仕事で著作権を繰り返し侵害していた場合はどうか。トートバッグのデザイン(佐野氏は部下がしたと述べているが疑わしい。事実ならば、その部下の名前を公表すべきである)や、五輪エンブレムの展開例(カンプ)での著作権侵害は、仮にリエージュ美術館の件が無かったとしても、デザイナーとしての信用を失墜させるに余りある行為である。このような複数の著作権侵害行為は、殺人事件と同様に、デザイナーとしての信用を決定的に失わせるものだ(もちろん殺人事件とは異なり、人間としての信用までは失わないが)

繰り返すが、リエージュ美術館の件とは無関係に、佐野氏がデザイナーとしての信用を失わせる著作権侵害行為をしたから、エンブレムの使用継続が不可能になったのだ。以上を確認した上で、「一般国民の理解が得られない」の意味は何だろうか。

一つ目の意味は、最初で述べたように、「五輪エンブレムはリエージュ美術館のロゴの著作権を侵害していない」ということを、一般国民が理解していないことである。確かに「エンブレムは著作権侵害ではない」と言う専門家たちの意見は正しいように思われる。そして、その点を理解していない一般国民も多いだろう。しかし、もはやその点は重要ではない。

二つ目の意味は、五輪とは別の仕事で複数の著作権侵害が発覚した佐野氏のエンブレムを使い続けることを、一般国民は受け入れられない、ということである。この理由は、縷々述べてきたように、デザイナーとしての信用を佐野氏が完全に毀損したからである。リエージュ美術館の件は関係がない。

組織委は上述の二つの意味を「一般国民の理解が得られない」に込め、佐野氏に対する責任追及の必要性をごまかしたように思われる。一見すると一般国民が無知だからエンブレムを撤回したとも解釈でき、他方で佐野氏の責任に言及しているようにも読めるのだ。

なぜ、組織委はこのような曖昧な表現をしたのか。これは推測だか、組織委は佐野氏にある種の弱味を握られているのではないか。現在、ネットで出回っている情報や報道内容を見る限り、エンブレム撤回の責任は、ほぼ佐野氏だけにある。五輪とは別件の、彼の仕事の不誠実な著作権侵害行為に、今回の事態のほぼ全責任があると言ってよい。それにも関わらず、組織委が曖昧な表現で佐野氏を庇ったのは、両者にある種の共犯関係があるからではないか。

もっともありそうなことは、今回のエンブレム選考が出来レースだった、ということである。選考委員長は「もっとも透明な選考だった」と自賛しているようだが、応募要件が厳しく100人余りしか応募しなかったようである。また、デザインに関する有名な賞の受賞者と、その選考委員が同じような顔触れというのも疑念を生じさせる。

何れにしても、佐野氏の責任を追及しようとしない現在の組織委には、自浄能力が無いように思われる。組織委員を全面的に入れ替えるとともに、第三者委員会を作って今回の件の経緯を詳しく検証すべきだ。

2015年8月22日土曜日

保守主義 = 理性主義のつまみ食い

中島岳志氏の「保守派の私が原発に反対してきた理由http://www.magazine9.jp/hacham/110330/ を興味深く読んだ。私も中島氏と似た考えで原発の長期的な維持には反対である。原発のリスクは、自動車事故や医薬品の予想外の副作用と異なり、ひとたび過酷事故が起きれば回復不可能な破滅的損害が生じうる。例えば、交通戦争とまで言われた最悪の時期の自動車事故では年間1万人程度が亡くなっていたが、それで国が破滅するわけではない。しかし、最悪の原発事故が起きた場合、国の復興が物理的に不可能になる可能性があり、受け入れ難いリスクである。個人的には、原発の新規設置は行わず、既存の原発を耐用年数が来るまで稼働させつつ段階的に脱原発を行うべきだと思う(即時に脱原発をすべきでないのは、火力発電所建設など代替エネルギー獲得の時間稼ぎをする必要があるため)。

しかし、中島氏の論文の内、脱原発論とは直接関係が無い点が、私の関心を引いた。それは、中島氏が「保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします」と書いている点である。この考え方は結局は矛盾を来たすのではないか。

中島氏は保守主義を次のように説明する。

 保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念を保守主義者は共有します。

 保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって、完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は永遠に不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。

中島氏は、上述のような理性万能主義に対する懐疑を根拠に、安全な原発など不可能だから原発には否定的である、と議論を展開する。

しかし、中島氏の理性万能主義に対する懐疑は一貫してないように感じる。例えば、以下のように自動車事故と原発事故のリスクの比較では、理性的な考え方にも言及しているのである。

 原発も、同様の前提の下で考える必要があります。原発のリスクと利便性を天秤にかけたとき、どのような判断をするべきかを考える必要があります。

 自動車も飛行機も、確かにリスクのある存在です。しかし、原発のリスクはそれらをはるかに上回ります。一旦事故が起こると(事故の規模にもよりますが)、相当程度の国土が汚染され、人間が中長期間にわたって住むことができなくなります。

このように、中島氏は自動車事故と原発事故のリスクとベネフィットを比較して原発に否定的なのだが、なぜこのような理性主義的な比較論には懐疑を示さないのか。「このようなリスクの比較は本当に正しいのか分からない。なぜなら人間の知性には限界があるからだ」と言わないのは何故だろうか。

中島氏が上記論文で行っているのは、「理性万能主義に対する懐疑」ではなく「理性主義的な懐疑」のように思われる。つまり、氏が行っているのは、「具体的な事柄に対して理論的、経験的根拠を示した上で、疑問を呈する」という知の営みである。それは、「人間の知性には限界があるから理性に全幅の信頼は置けない」という懐疑の態度とは異なる。

そして「理性万能主義に対する懐疑」という態度を取ると、理性主義のつまみ食いになるのではないか。ある時は、「人間の知性には限界があるから」と理性主義的な考え方そのものを否定し、別の場面では理性主義的な懐疑論を展開する。また、別のある時は理性主義的な改革論を唱え、それを漸進主義と言い換える。中島氏に限らず、保守系知識人にはこのような矛盾が罷り通っているように感じられるのだ。

2015年5月15日金曜日

護憲派に対する違和感

戦後の憲法9条の政府解釈は法治主義に反する屁理屈であり、自衛隊は違憲である。しかし、国防組織が必要なのは疑いないので、憲法9条を改正して明確に自衛権に基づく戦争(自衛戦争、予防戦争、制裁戦争)を認め自衛隊を合憲と位置付けた上で、併せて侵略戦争を禁ずる規定を追加するべきだろう。

憲法9条は政府首脳の善意によって運用されていると思う。憲法9条の政府解釈(自衛行動[交戦権なき自衛戦争]という概念を恣意的に作り出す)と同じ態度で三権分立や参政権を解釈すれば、日本は法治国家ではなくなっていただろう。憲法9条以外は法治主義に沿った妥当な解釈を行い、ただ9条のみを法治主義に反する解釈をして政権運営を行っている。これが実現していたのは、閣僚や官僚幹部の善意だと私は推測している。そしてこの善意は、敗戦による主権消滅の恐怖体験によって成立していたと思う。また、自衛隊合憲の政府解釈もこの恐怖体験が元になっているのだろう(自衛隊が存在しないと主権国家を維持できない)。いずれも無意識的なものだろうが。

しかし時は過ぎ、敗戦による主権消滅の恐怖感も無くなってしまった。そろそろ法治主義に反する危険な9条解釈を止める時期である。そうしないと、官僚や政治家の中に悪意を持って法治主義を破壊する実力者が将来現れた時に、その人を牽制できなくなる(その悪人は今は小学生かもしれないし、未だ生まれていないかもしれない。いずれにしても、その潜在的な悪人を抑止する法制度を作る必要がある)。

しかし、単に憲法9条で自衛権に基づく戦争を認めるだけでは足りず、侵略戦争を明確に定義してそれを禁ずるべきだ。なぜなら、過去において侵略戦争と銘打って開戦した国は存在しないからである。何が侵略戦争なのかを明確に定義し、侵略戦争を自衛権に基づく戦争だと政府にカモフラージュされるのを防ぐ必要がある。それには、太平洋戦争や日中十五年戦争を実行した動機の中で、何が正義に反するものだったのかを明らかにする必要がある。しかし、その作業を始めた場合、中韓が外交カードとして使って日本に謝罪を求めてくるだろう。

そこが保守派のジレンマである。本当のところ過去を反省したいのだが、他国を不当に利するのは避けたい。残念ながら、国際政治においては未だ弱肉強食の側面があり、自国に不利なることを自ら行い、安易に他国を利するわけにはいかないのだ。

いわゆる護憲派は、本来は、太平洋戦争を侵略戦争とした上で批判し、憲法9条を改正して自衛隊を国防軍に格上げするとともに、明確に定義された侵略戦争を禁止する規定を憲法に追加すべきだった。しかし、自衛権に基づく戦争も含めて単に戦争を行う能力を否定してしまい、丸腰になるのが理想と説いた。北朝鮮や旧ソ連、中国の脅威が現実に存在したのに非現実的である。

彼らは「戦争反対」と言うが、これは不正確な表現である。「侵略戦争反対」と言うべきで自衛権に基づく戦争は容認すべきだった。

例えば、警察の不祥事を防止する対策は、警察組織を消滅させることではない。確かに警察組織が消滅すれば原理的に警察不祥事は発生しなくなるが、それでは一般の犯罪が処罰されなくなってしまう。警察不祥事の防止に求められるのは、不祥事を防止する具体的な施策であり、警察組織の消滅ではない。同様に、軍組織暴走の防止に必要なのは、その暴走を防ぐ具体的な施策(三権分立や、首相への全権力と全責任の集中、侵略戦争の明確な定義と禁止)であり、軍組織そのものの消滅ではない。それでは他国に簡単に侵略されてしまう。

あまつさえ、非武装中立は資本主義の間だけで、社会主義革命後は武装化してワルシャワ条約機構に加入すべきと明言する者もいた。(向坂逸郎など)。護憲派が信頼を失うのはあまりに当然である。

2015年1月29日木曜日

言葉遊びとしての憲法9条の政府解釈

全く時機を逃したように感じるが、遅まきながら政府の憲法9条の解釈について考えてみたい。本記事で縷々説明しているが、要するに政府の9条解釈は言葉遊びだと結論せざるを得ない。そして、憲法9条を改正すべきだと考えている。

まず、安倍首相の集団的自衛権容認以前の政府解釈から議論を始めよう。

はじめに9条の条文を引用しておこう。
第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊の存在を合憲としたい。でも戦力と交戦権はどうしよう・・・

政府の9条解釈の一番重要な出発点は、自衛隊の存在を合憲としたい、ということだ。決して、9条の条文を検討して「自衛隊は合憲だろうか・・・。うむ、検討した結果、合憲だ」などと考えたわけではないと思われる。「国を守るためには国防組織が必要なのは論を待たない。しかし、自衛隊は一見すると9条に違反するように思われる。どうしたらいいだろうか」。自衛隊発足当時の政府首脳はこう考えたのだろう。

9条1項は以下のようになっている。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

これに対して政府首脳は、「これは要するに、侵略戦争を否定したものと解釈しよう。自衛戦争は否定されていないのだ」と考えたようだ。そのロジックは以下の通り。

  • 「国権の発動たる」は、「国家の行為としての」という意味の「戦争」にかかる修飾語に過ぎない。「国権の発動たる戦争」とは、「国家の行為としての国際法上の戦争」というような意味で、単に「戦争」と言うのとその意味は変わらない。
  • 「国際紛争を解決する手段としての戦争」は、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味で、具体的には侵略戦争を意味するとしている。
以上のような解釈を経て条文を書き換えると、下記となる。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、侵略戦争を永久に放棄する。」

なるほど、これなら自衛隊は否定されない。自衛隊はその名の通り、自衛戦争のための国防組織だからだ。ここまでは分かりやすい。しかし、本当の関門は9条2項にあった。

9条2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

戦力を保持しない、交戦権を認めない・・・。自衛隊が戦力を有することは自明であり、また自衛戦争でも交戦権を行使することは避けれらないように思われる。このような条文において、自衛隊はどうして合憲とできようか。ところが政府は以下に展開するロジックで、「自衛隊は合憲」とアクロバチックに結論に至るのである。

まず、「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える

憲法9条の政府解釈の肝は、まず最初に「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える点にある。憲法9条を以って日本の戦争に関する権能を全て定めているような感覚を筆者は持っていたのだが、その感覚を引きずっていると政府解釈が意味不明な印象を与えることになる。まずは9条の存在をきれいサッパリ忘れてしまいましょう。

政府解釈は、「憲法9条が仮に無かったとしたら、国際法上、日本はどのような戦争に関する権利を有しているか」と考える。この問いに対して政府解釈は、「国際慣習法と国連憲章第51条によって、国際法上、日本は自衛権(個別的自衛権と集団的自衛権)を有する」と答える。その自衛権の具体的内容を以下の表にまとめた。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

用語 定義 個別的か集団的か
自衛戦争 単純に攻撃を受けたから防御する戦争 個別的自衛権
予防戦争 実際に攻撃を受ける前でも、相手国の動きを封じ込めるために、先制攻撃をかける戦争 個別的自衛権
制裁戦争 自国が侵略を受けなくても、他国が侵略を受けた場合に、被侵略国に助力し、侵略国に制裁を加える戦争 集団的自衛権

否定されてない権能を探すパズルゲーム

政府解釈を理解する肝の二つ目は、政府解釈を、否定されてない権能を探すゲームであると捉えることである。まず、憲法9条が仮に無かった場合に日本に国際法上認められる権能をリストアップし、その内、何が憲法9条(特に2項)によって否定されていないかを探すゲーム(否定されていないというロジックを作るゲーム)と考えると、政府解釈の意図は理解しやすくなる。その時の基本戦略は、用語を細かく分類したり厳密に定義することである。こうすることで、憲法9条で否定されていない権能を切り出しやすくなる。

以上を踏まえて政府解釈を極限まで単純化すると、以下の式にまとめられる。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

つまり、国際法上、日本には自衛権が認められているが、そこから憲法9条第2項で否定されている戦力と交戦権を差し引けば、それが日本に認められた自衛に関する権能である。言い換えれば、自衛権の内、憲法9条第2項で否定されていない部分が、自衛隊に認められた権能である。これが、政府解釈を極限まで単純化した要約である。

そこでまず、戦力について考えよう。普通に考えると自衛隊は戦力を持っているように感じられるが、これは憲法9条第2項に違反しないのだろうか。

実は、政府解釈では自衛隊は戦力を持っていない。代わりに、「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていると政府は言うのである。

両者の違いは何なのか。政府解釈では、戦力とは、「自衛のための必要最低限度を超えるもの(武力)」と定義している。超えないものが、「自衛のための必要最小限度の武力」である。

なぜこんな解釈をしているのかというと、先に書いた通り、政府にとって9条解釈は否定されていない権能を探すゲームだからであろう。そうしないと自衛隊が合憲にならないのである。一応、このように戦力を定義する根拠として、「憲法9条が自衛権を否定してないからだ(否定されているのは戦力と交戦権だけ)。だから、自衛権を肯定する形で戦力を定義すると、戦力とは自衛のための必要最低限度を超える武力である。超えない武力は合憲」と政府は主張する。しかし、通常の国語能力がある人が9条の条文を読んで、そもそもこの規定が自衛権を認めていると解釈するだろうか。難しいであろう。

ちなみに「自衛のための必要最小限度の武力」でも、武力であることには変わりないため9条第1項に反するように思われるが、これには政府は次のように反論する。すなわち、第1項で否定されているのは「国際紛争を解決する手段として」の武力であり、自衛のための武力は認められている、と。

ともかく政府解釈では、自衛隊は戦力の代わりに「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていることになっているので、この組織は合憲と位置付けることが可能になる。

次に、交戦権否認の規定を考えよう。政府は自衛戦争に以下のような分類を増やした。

  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

「つまり、自衛戦争とひと口に言うが、それは、交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)と交戦権がない自衛戦争に分けることができる。交戦権がない自衛戦争は、自衛行動と呼ぼう」。こう、政府は言うのである。

次に、交戦権に厳密な定義を与えよう。
  • 交戦権とは、「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であり、「相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むもの」である。
上記の定義を踏まえたうえで、では交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)とは何か。政府は以下のように言う。

  • 自衛行動とは、「外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使」をいう。
ところで、上記のように自衛行動を定義すると、では交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)とは何だろうか。これについては政府の見解がよく分からない所もあるのだが、おそらく以下のようなものだろう。すなわち、交戦権がある自衛戦争とは、「外国からの武力攻撃に対して、これを排除するために行われる実力行使。必要最小限の反撃である必要はないし、他に有効、適切な手段がないとまでは言えない場合でも武力行使可能である。また交戦権があるので、相手国の占領も可能」というものだろう。

なお、交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)と、交戦権がある自衛戦争の実質的な違いは、相手国の占領が可能か否かの一点であるように思われる(必要最小限の実力行使を超えるため、自衛行動では相手国の占領は不可)。それ以外の点において、両者には外観上は重複する行為(相手国兵士の殺傷と破壊など)があるが、それらの行為は観念的には異なるとする(防衛省の解釈)。

さて話を戻して、「自衛隊は自衛行動を実行するために存在している」と位置付けよう。そうすると、あら不思議、一見すると9条2項の交戦権否認の規定に反するかに思われた自衛隊は、立派に合憲となることができた。

以上のように戦力と交戦権の概念操作を経て、自衛隊は合憲と位置付けられている。

集団的自衛権も合憲としたい

ところが時は過ぎ、このアクロバチックな解釈にも問題が生じてきた。最初に掲げた自衛戦争の定義を、もう一度確認してもらいたい。自衛戦争は個別的自衛権に分類されるのである。したがって個別的自衛権においては、例えば、米軍と自衛隊が軍事演習中に米軍だけ中国から攻撃された場合でも、集団的自衛権を行使できないので自衛隊は傍観することになる。より具体的な外交事情として、尖閣諸島等の離島防衛強化に米軍に協力してもらうのと引き換えに、集団的自衛権の容認をアメリカに求められたという経緯があるようだ(NHK「自衛隊はどう変わるのか ~安保法施行まで3か月~」)。

そこで安倍政権は、集団的自衛権も合憲だという以下のような見解を打ち出した。

(武力行使の新3要件) 
(1)我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、(3)必要最小限度の実力を行使する。

これはどう考えればいいのだろうか。やはり、考え方の起点は先に示したあの式である。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

戦力不保持の規定に対する政府のロジックは、簡単である。「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に」この長い要件は、一言、「自衛のために」に置き換える。すると、新3要件は「自衛のために必要最小限度の実力を行使する」と要約でき、合憲とすることができる。

次に交戦権否認の規定を考えよう。自衛権に基づく戦争の階層構造をもう一度見直してみよう。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

この階層構造から考えると、制裁戦争に、「交戦権がない制裁戦争」という分類を追加すれば、集団的自衛権も合憲とすることができるのではないか。




  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争(交戦権がある制裁戦争)
      • 交戦権がない制裁戦争(武力行使新3要件の追加部分)

  • つまり、「武力行使新3要件は交戦権がない制裁戦争であり合憲である」と政府は言いたいのだろう。前述の式が示す通り、自衛のための交戦権がない戦争であれば、何でも認められると考えているようだ。従来は、「交戦権がない戦争」=自衛行動 とされてきたが、そのような一対一対応である必要はなくなり、集団的自衛権の一部も含めてよい、と考え方を変えたようだ。

    法治主義としては好ましくない

    以上のように、政府の憲法9条解釈を縷々論じてきたわけだが、やはり気になるのが法治主義の精神から乖離している点である。政府解釈は言葉遊びにしか見えない。初めに述べたとおり、そもそも自衛隊を合憲とするのをゴールとして政府解釈が展開しているようにしか、見えないのである。そして、憲法9条を法治主義に従って解釈すれば、自衛隊は違憲という結論しか出てこない。

    憲法学的議論では、憲法の条文を解釈の起点に置くべきであり、国際慣習法や国連憲章にその起点を置くべきではない。なぜなら、憲法は国の最高法規だからだ。憲法9条以外で、解釈の起点を憲法の条文以外に置いている憲法学的な議論が存在するだろうか。

    筆者は自衛隊のような国防組織は必要と考えているので、憲法9条を改正して正面から自衛権を認めるようにしたほうが良いと考える。つまり、個別的自衛権も集団的自衛権も認め、戦力不保持や交戦権否認という非現実的な制約を国に課すのをやめるべきだ。同時に、侵略戦争を9条で禁ずれば問題は生じないだろう。

    2015/12/23 戦力について追記