2015年8月22日土曜日

保守主義 = 理性主義のつまみ食い

中島岳志氏の「保守派の私が原発に反対してきた理由http://www.magazine9.jp/hacham/110330/ を興味深く読んだ。私も中島氏と似た考えで原発の長期的な維持には反対である。原発のリスクは、自動車事故や医薬品の予想外の副作用と異なり、ひとたび過酷事故が起きれば回復不可能な破滅的損害が生じうる。例えば、交通戦争とまで言われた最悪の時期の自動車事故では年間1万人程度が亡くなっていたが、それで国が破滅するわけではない。しかし、最悪の原発事故が起きた場合、国の復興が物理的に不可能になる可能性があり、受け入れ難いリスクである。個人的には、原発の新規設置は行わず、既存の原発を耐用年数が来るまで稼働させつつ段階的に脱原発を行うべきだと思う(即時に脱原発をすべきでないのは、火力発電所建設など代替エネルギー獲得の時間稼ぎをする必要があるため)。

しかし、中島氏の論文の内、脱原発論とは直接関係が無い点が、私の関心を引いた。それは、中島氏が「保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします」と書いている点である。この考え方は結局は矛盾を来たすのではないか。

中島氏は保守主義を次のように説明する。

 保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念を保守主義者は共有します。

 保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって、完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は永遠に不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。

中島氏は、上述のような理性万能主義に対する懐疑を根拠に、安全な原発など不可能だから原発には否定的である、と議論を展開する。

しかし、中島氏の理性万能主義に対する懐疑は一貫してないように感じる。例えば、以下のように自動車事故と原発事故のリスクの比較では、理性的な考え方にも言及しているのである。

 原発も、同様の前提の下で考える必要があります。原発のリスクと利便性を天秤にかけたとき、どのような判断をするべきかを考える必要があります。

 自動車も飛行機も、確かにリスクのある存在です。しかし、原発のリスクはそれらをはるかに上回ります。一旦事故が起こると(事故の規模にもよりますが)、相当程度の国土が汚染され、人間が中長期間にわたって住むことができなくなります。

このように、中島氏は自動車事故と原発事故のリスクとベネフィットを比較して原発に否定的なのだが、なぜこのような理性主義的な比較論には懐疑を示さないのか。「このようなリスクの比較は本当に正しいのか分からない。なぜなら人間の知性には限界があるからだ」と言わないのは何故だろうか。

中島氏が上記論文で行っているのは、「理性万能主義に対する懐疑」ではなく「理性主義的な懐疑」のように思われる。つまり、氏が行っているのは、「具体的な事柄に対して理論的、経験的根拠を示した上で、疑問を呈する」という知の営みである。それは、「人間の知性には限界があるから理性に全幅の信頼は置けない」という懐疑の態度とは異なる。

そして「理性万能主義に対する懐疑」という態度を取ると、理性主義のつまみ食いになるのではないか。ある時は、「人間の知性には限界があるから」と理性主義的な考え方そのものを否定し、別の場面では理性主義的な懐疑論を展開する。また、別のある時は理性主義的な改革論を唱え、それを漸進主義と言い換える。中島氏に限らず、保守系知識人にはこのような矛盾が罷り通っているように感じられるのだ。