2015年1月29日木曜日

言葉遊びとしての憲法9条の政府解釈

全く時機を逃したように感じるが、遅まきながら政府の憲法9条の解釈について考えてみたい。本記事で縷々説明しているが、要するに政府の9条解釈は言葉遊びだと結論せざるを得ない。そして、憲法9条を改正すべきだと考えている。

まず、安倍首相の集団的自衛権容認以前の政府解釈から議論を始めよう。

はじめに9条の条文を引用しておこう。
第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊の存在を合憲としたい。でも戦力と交戦権はどうしよう・・・

政府の9条解釈の一番重要な出発点は、自衛隊の存在を合憲としたい、ということだ。決して、9条の条文を検討して「自衛隊は合憲だろうか・・・。うむ、検討した結果、合憲だ」などと考えたわけではないと思われる。「国を守るためには国防組織が必要なのは論を待たない。しかし、自衛隊は一見すると9条に違反するように思われる。どうしたらいいだろうか」。自衛隊発足当時の政府首脳はこう考えたのだろう。

9条1項は以下のようになっている。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

これに対して政府首脳は、「これは要するに、侵略戦争を否定したものと解釈しよう。自衛戦争は否定されていないのだ」と考えたようだ。そのロジックは以下の通り。

  • 「国権の発動たる」は、「国家の行為としての」という意味の「戦争」にかかる修飾語に過ぎない。「国権の発動たる戦争」とは、「国家の行為としての国際法上の戦争」というような意味で、単に「戦争」と言うのとその意味は変わらない。
  • 「国際紛争を解決する手段としての戦争」は、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味で、具体的には侵略戦争を意味するとしている。
以上のような解釈を経て条文を書き換えると、下記となる。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、侵略戦争を永久に放棄する。」

なるほど、これなら自衛隊は否定されない。自衛隊はその名の通り、自衛戦争のための国防組織だからだ。ここまでは分かりやすい。しかし、本当の関門は9条2項にあった。

9条2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

戦力を保持しない、交戦権を認めない・・・。自衛隊が戦力を有することは自明であり、また自衛戦争でも交戦権を行使することは避けれらないように思われる。このような条文において、自衛隊はどうして合憲とできようか。ところが政府は以下に展開するロジックで、「自衛隊は合憲」とアクロバチックに結論に至るのである。

まず、「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える

憲法9条の政府解釈の肝は、まず最初に「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える点にある。憲法9条を以って日本の戦争に関する権能を全て定めているような感覚を筆者は持っていたのだが、その感覚を引きずっていると政府解釈が意味不明な印象を与えることになる。まずは9条の存在をきれいサッパリ忘れてしまいましょう。

政府解釈は、「憲法9条が仮に無かったとしたら、国際法上、日本はどのような戦争に関する権利を有しているか」と考える。この問いに対して政府解釈は、「国際慣習法と国連憲章第51条によって、国際法上、日本は自衛権(個別的自衛権と集団的自衛権)を有する」と答える。その自衛権の具体的内容を以下の表にまとめた。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

用語 定義 個別的か集団的か
自衛戦争 単純に攻撃を受けたから防御する戦争 個別的自衛権
予防戦争 実際に攻撃を受ける前でも、相手国の動きを封じ込めるために、先制攻撃をかける戦争 個別的自衛権
制裁戦争 自国が侵略を受けなくても、他国が侵略を受けた場合に、被侵略国に助力し、侵略国に制裁を加える戦争 集団的自衛権

否定されてない権能を探すパズルゲーム

政府解釈を理解する肝の二つ目は、政府解釈を、否定されてない権能を探すゲームであると捉えることである。まず、憲法9条が仮に無かった場合に日本に国際法上認められる権能をリストアップし、その内、何が憲法9条(特に2項)によって否定されていないかを探すゲーム(否定されていないというロジックを作るゲーム)と考えると、政府解釈の意図は理解しやすくなる。その時の基本戦略は、用語を細かく分類したり厳密に定義することである。こうすることで、憲法9条で否定されていない権能を切り出しやすくなる。

以上を踏まえて政府解釈を極限まで単純化すると、以下の式にまとめられる。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

つまり、国際法上、日本には自衛権が認められているが、そこから憲法9条第2項で否定されている戦力と交戦権を差し引けば、それが日本に認められた自衛に関する権能である。言い換えれば、自衛権の内、憲法9条第2項で否定されていない部分が、自衛隊に認められた権能である。これが、政府解釈を極限まで単純化した要約である。

そこでまず、戦力について考えよう。普通に考えると自衛隊は戦力を持っているように感じられるが、これは憲法9条第2項に違反しないのだろうか。

実は、政府解釈では自衛隊は戦力を持っていない。代わりに、「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていると政府は言うのである。

両者の違いは何なのか。政府解釈では、戦力とは、「自衛のための必要最低限度を超えるもの(武力)」と定義している。超えないものが、「自衛のための必要最小限度の武力」である。

なぜこんな解釈をしているのかというと、先に書いた通り、政府にとって9条解釈は否定されていない権能を探すゲームだからであろう。そうしないと自衛隊が合憲にならないのである。一応、このように戦力を定義する根拠として、「憲法9条が自衛権を否定してないからだ(否定されているのは戦力と交戦権だけ)。だから、自衛権を肯定する形で戦力を定義すると、戦力とは自衛のための必要最低限度を超える武力である。超えない武力は合憲」と政府は主張する。しかし、通常の国語能力がある人が9条の条文を読んで、そもそもこの規定が自衛権を認めていると解釈するだろうか。難しいであろう。

ちなみに「自衛のための必要最小限度の武力」でも、武力であることには変わりないため9条第1項に反するように思われるが、これには政府は次のように反論する。すなわち、第1項で否定されているのは「国際紛争を解決する手段として」の武力であり、自衛のための武力は認められている、と。

ともかく政府解釈では、自衛隊は戦力の代わりに「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていることになっているので、この組織は合憲と位置付けることが可能になる。

次に、交戦権否認の規定を考えよう。政府は自衛戦争に以下のような分類を増やした。

  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

「つまり、自衛戦争とひと口に言うが、それは、交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)と交戦権がない自衛戦争に分けることができる。交戦権がない自衛戦争は、自衛行動と呼ぼう」。こう、政府は言うのである。

次に、交戦権に厳密な定義を与えよう。
  • 交戦権とは、「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であり、「相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むもの」である。
上記の定義を踏まえたうえで、では交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)とは何か。政府は以下のように言う。

  • 自衛行動とは、「外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使」をいう。
ところで、上記のように自衛行動を定義すると、では交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)とは何だろうか。これについては政府の見解がよく分からない所もあるのだが、おそらく以下のようなものだろう。すなわち、交戦権がある自衛戦争とは、「外国からの武力攻撃に対して、これを排除するために行われる実力行使。必要最小限の反撃である必要はないし、他に有効、適切な手段がないとまでは言えない場合でも武力行使可能である。また交戦権があるので、相手国の占領も可能」というものだろう。

なお、交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)と、交戦権がある自衛戦争の実質的な違いは、相手国の占領が可能か否かの一点であるように思われる(必要最小限の実力行使を超えるため、自衛行動では相手国の占領は不可)。それ以外の点において、両者には外観上は重複する行為(相手国兵士の殺傷と破壊など)があるが、それらの行為は観念的には異なるとする(防衛省の解釈)。

さて話を戻して、「自衛隊は自衛行動を実行するために存在している」と位置付けよう。そうすると、あら不思議、一見すると9条2項の交戦権否認の規定に反するかに思われた自衛隊は、立派に合憲となることができた。

以上のように戦力と交戦権の概念操作を経て、自衛隊は合憲と位置付けられている。

集団的自衛権も合憲としたい

ところが時は過ぎ、このアクロバチックな解釈にも問題が生じてきた。最初に掲げた自衛戦争の定義を、もう一度確認してもらいたい。自衛戦争は個別的自衛権に分類されるのである。したがって個別的自衛権においては、例えば、米軍と自衛隊が軍事演習中に米軍だけ中国から攻撃された場合でも、集団的自衛権を行使できないので自衛隊は傍観することになる。より具体的な外交事情として、尖閣諸島等の離島防衛強化に米軍に協力してもらうのと引き換えに、集団的自衛権の容認をアメリカに求められたという経緯があるようだ(NHK「自衛隊はどう変わるのか ~安保法施行まで3か月~」)。

そこで安倍政権は、集団的自衛権も合憲だという以下のような見解を打ち出した。

(武力行使の新3要件) 
(1)我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、(3)必要最小限度の実力を行使する。

これはどう考えればいいのだろうか。やはり、考え方の起点は先に示したあの式である。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

戦力不保持の規定に対する政府のロジックは、簡単である。「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に」この長い要件は、一言、「自衛のために」に置き換える。すると、新3要件は「自衛のために必要最小限度の実力を行使する」と要約でき、合憲とすることができる。

次に交戦権否認の規定を考えよう。自衛権に基づく戦争の階層構造をもう一度見直してみよう。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

この階層構造から考えると、制裁戦争に、「交戦権がない制裁戦争」という分類を追加すれば、集団的自衛権も合憲とすることができるのではないか。




  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争(交戦権がある制裁戦争)
      • 交戦権がない制裁戦争(武力行使新3要件の追加部分)

  • つまり、「武力行使新3要件は交戦権がない制裁戦争であり合憲である」と政府は言いたいのだろう。前述の式が示す通り、自衛のための交戦権がない戦争であれば、何でも認められると考えているようだ。従来は、「交戦権がない戦争」=自衛行動 とされてきたが、そのような一対一対応である必要はなくなり、集団的自衛権の一部も含めてよい、と考え方を変えたようだ。

    法治主義としては好ましくない

    以上のように、政府の憲法9条解釈を縷々論じてきたわけだが、やはり気になるのが法治主義の精神から乖離している点である。政府解釈は言葉遊びにしか見えない。初めに述べたとおり、そもそも自衛隊を合憲とするのをゴールとして政府解釈が展開しているようにしか、見えないのである。そして、憲法9条を法治主義に従って解釈すれば、自衛隊は違憲という結論しか出てこない。

    憲法学的議論では、憲法の条文を解釈の起点に置くべきであり、国際慣習法や国連憲章にその起点を置くべきではない。なぜなら、憲法は国の最高法規だからだ。憲法9条以外で、解釈の起点を憲法の条文以外に置いている憲法学的な議論が存在するだろうか。

    筆者は自衛隊のような国防組織は必要と考えているので、憲法9条を改正して正面から自衛権を認めるようにしたほうが良いと考える。つまり、個別的自衛権も集団的自衛権も認め、戦力不保持や交戦権否認という非現実的な制約を国に課すのをやめるべきだ。同時に、侵略戦争を9条で禁ずれば問題は生じないだろう。

    2015/12/23 戦力について追記