2015年1月23日金曜日

自己責任論の誤り 人質に責任は無く、迂闊なだけである

イスラム国による、湯川遥菜さんと後藤健二さんの日本人二人の人質事件において、「自己責任なので殺されても仕方がない」という議論がネット上で噴出している。しかしこれは、自己責任と、迂闊な行為(自ら外国の危険地帯に行くという)への非難を、混同した誤った議論である。

どうして、このような混同が生じたのだろうか。

今回の人質事件の発生責任は明らかにイスラム国のテロリストにあり、被害者である二人にはもちろん、日本政府にも存在しない。しかし、この事件の解決責任は日本政府にある。これは国内における犯罪の扱いと同じである。犯罪行為の発生責任は加害者にあり、被害者にも警察にも存在しない。しかし、その解決責任は警察にあり、適切に捜査して被疑者を逮捕し、訴追する責任がある。

2002年のイラク日本人人質事件において、被害者家族が日本政府に発生責任があるかのような発言を繰り返した。おそらく、この発言に対する反論の意味を込めて、当時の福田官房長官が自己責任という言葉を使ったのだろう。

しかし、やはりこの用語の使い方は当時においても不適切だったと思う。この用語は、一般的には瑕疵担保責任や過失による不法行為責任などの賠償責任の免責を表す言葉である(例えば、「このフリーソフトウェアを使用する場合、そのバグによる損害は自己責任でお願いします」などの注意書き)。これはリスクある行為の損害(ソフトウェアの使用で稀に起きるデータ消失や、投資の失敗など)を誰が負担するかという文脈の議論であり、それをリスクを理解した上で自ら選択した行為者本人(ソフトウェアの利用者本人、投資家本人)とするのが自己責任の意味する所であろう。そして、これは民事上の賠償責任を念頭に置いた用語であり、刑事上の用語ではない。

福田官房長官は単に、「人質事件の発生責任は日本政府には無い」と言いたかったのだろう。しかし、それはイコール「被害者に自己責任がある」ということまで意味しない。おそらく、「イラクの危険地域に行くというリスクある行為を自ら選択した」という点と、自己責任の「リスクある行為を自ら選択する」という点の類似性を以って、両者を同一視したのだろう。しかし、人質事件はソフトウェアのバグではなく投資の失敗でもなく、単に犯罪である。民事上の概念である自己責任を刑事上の議論に関連付けるのは誤っている。

もちろん、人質に何ら非難すべき点がないわけではない。わざわざ外国の危険地域に行き、懸念された通り犯罪に巻き込まれたのだから、彼らは迂闊であると非難されるべきだ。しかし、責任という用語を用いて非難すべきではない。犯罪の被害者には、いかなる責任もない。

これらの混同によって、誤った(あるいはバランスを欠いた)議論につながってる。

例えば最初にも言及したように、主にネット上の保守派を中心に「自己責任だから人質を助ける必要はない」という誤った議論を引き起こし、政府の邦人保護義務(解決責任)をないがしろにする認識につながっている。他方で左派を中心に、自己責任論の誤りを指摘して犯人の責任(発生責任)と政府の邦人保護義務に言及するが、そこで思考は停止し、人質の迂闊な行為(わざわざ外国の危険地帯に行くという)は批判しない。

あれから10年以上経過したが、未だに以上のような混同をして(ネット上の)保守派と左派がかみ合わない議論をするのは、何故なのだろうか。

※お二人の死については非常に残念です。ご冥福をお祈りいたします。お二人への批判の言葉が不適切と考え、一部修正します。