2015年1月26日月曜日

困窮者支援者の攻撃性はどこから来るのか

困窮者支援論者の言動に違和感を感じたことはないだろうか。例えば、彼らはこのような語り方をしている。


藤田孝典
どの歴史書や文献を読んでみても、いつの世もクソなんだと思う。そんな世をクソだとハッキリ言えるヤツもまた少数だから、いつの時代も気づいてしまったクソ野郎はやるしかないのだろう。

すべてに通じるが、日本は政策を企画・立案する政治・行政にほとんど貧困を経験した人がいないという致命的な欠陥がある。

生活保護問題対策全国会議
(引用者注。生活保護のプリペイドカード方式導入で)利益を得るのは大手カード会社だけであり,まさに国家的規模で福祉給付を利潤の源として食い物にする貧困ビジネスの始まりである。


彼らの指摘には傾聴に値する部分もあるのだが、感情的な表現が鼻について何だが居心地の悪さを感じる。この原因は何だろうか。


二つの立場

私が思うに、このような困窮者支援者の攻撃的な態度は、貧困の原因をどのようなものと捉えているかにあるように思う。貧困の原因をどう見るか、その立場は大きく分けて二つある。

一つ目の立場は、「貧困=交通事故」論者である。「毎年何万件と交通事故が起こるが、事故発生は自動車の利用の原理的必然ではない。交通事故がゼロになったからといって自動車の利用ができなくなるわけではなく、交通事故をゼロにすることは原理的には可能である。同様に、貧困も原理的にはゼロにすることができる」彼らはこのように考える。

二つ目の立場は、「貧困=スポーツの敗者」論者である。「スポーツのルール上、敗者が存在しない状況はありえない。誰かが勝ち、別の誰かが負ける。プロ野球のリーグ戦において、最下位チームを発生させない方法というのは原理的に存在しない。つまり、スポーツの敗者の発生は原理的な必然である。同様に、経済というスポーツにおいても原理的な必然として敗者(貧困)は発生する。貧困の発生をゼロにすることは、自由市場経済の枠内では原理的に不可能である(自由市場経済の枠外である福祉政策によってのみ解決できる)」彼らはこう考える(ここでは触れないが、同じ結論をマルクス経済学の窮乏化法則に求める考え方もある)。

困窮者支援者は、スポーツ敗者論者が多いように感じる。


実際的な問題 モラルハザードの対策


「貧困=スポーツの敗者」論者と「貧困=交通事故」論者の間での利害調整の対話で、実際的な問題になってくるのは、モラルハザードに対する対策をどうするかという点であろう。

本題に入る前にモラルハザードとは何かを説明しておこう。モラルハザードとは、ある政策や契約の実行後に経済主体の振る舞いが変わることによって生じる、経済的非効率である。例えば、火災保険を締結すると、保険でカバーされるという安心感が無意識の内に火の扱いに対する注意を低下させる。そのため、火災保険締結前より火災発生率が上がり、保険料と発生率が均衡しないという問題が生じる(歴史的に保険が登場した当時の問題。現在はこのようなモラルハザードは初めから織り込まれて保険料を設定しているだろう)。生活保護の問題の場合、働かなくても生きていけるため勤労意欲が低下して、就業を妨げることが相当する。注意すべきは、モラルハザードは違法行為とは異なる問題である、という点だ。故意に火を点けて火災保険を詐取するのは単に犯罪として処罰される。生活保護の不正受給も違法行為であり、モラルハザードとは異なる。モラルハザードという概念が生まれたのは、契約違反や違法行為として抑止することが難しい点に求められる。故意に火を点けたことは証明できるが、無意識に火の扱いがぞんざいになっていることは証明できない。生活保護の不正受給は証明できるが、勤労意欲が低下して就業できないか、それとも意欲には問題ないが種々の障害があって就業につながらないのか、区別できない。モラルハザードとは、このような問題を認識するための概念である。

さて、本題に戻ろう。「貧困=スポーツの敗者」論者と「貧困=交通事故」論者には認識の相違がある。どちらの立場を取るかで、政治的な利害調整の態度が異なってくる。具体的には、モラルハザード抑止策でもある就業者支援や生活保護の制約のあり方に対して態度が異なってくる。

スポーツ敗者論者の立場に立つ者は、困窮者の自立支援に消極的になるだろう。特に、困窮者にある種の忍耐を要求するような政策(例えば生活保護の条件に職業訓練受講を義務化したり、生活保護費をプリペイドカードで管理する、など)に対して、反発しやすくなる。なぜなら、貧困は、スポーツの敗者のようにいかなる方法でも原理的に避けることができないものだと、彼らは考えるかだ。「確かに、困窮者に忍耐を強いる自立支援政策を施せば、その困窮者は貧困を脱するかもしれない。しかし、その人と入れ替わりで別の人が貧困に陥るだろう。スポーツに敗者がいない状態が存在しないように、自由市場経済においては誰かが困窮者になるからだ。ならば、困窮者に忍耐を求めるのは酷ではないか。どの道誰かが困窮する以上、困窮者に忍耐を求める政策は、どの時点でも必然的に誰かに忍耐を求めることになるからだ。忍耐という苦痛を原理的に避ける方法が無いならば、それは実質的に抑圧ではないのか」。「貧困=スポーツの敗者」論者は、以上のように考える。

これに対して交通事故論者は、困窮者に忍耐を求める政策にも消極的ではない。貧困が無い世界というのは、交通事故が無い世界のように、原理的には存在しうるからだ。今の所は交通事故をゼロにする現実的な方法は無いが、道路交通法に厳しい罰則を設けることなどで、事故を減らすことができる(実際、航空業界の場合はパイロットの数がドライバーより圧倒的に少ないため、政府による高度な安全管理が可能であり、事故がゼロに近い)。同様に、困窮者に忍耐を求める政策によって貧困を減らすことができるだろう。「貧困=交通事故」論者以上のように考える。

これらの対立の存在を示唆する結果がある。「湯浅誠 モラルハザード」や「藤田孝典  モラルハザード」で検索して見ると、湯浅氏や藤田氏自身がモラルハザードについて語った文章がほぼヒットしないのである。御二人は貧困問題について活発な活動をされているが、モラルハザードの抑止策についてほとんど議論されていない。困窮者支援の実効性と両立するモラルハザード抑止策はどのようなものか、御二人には議論してもらいたいのだが。


感情的な問題 発生責任と解決責任

前節の対立を感情的な面からもう一度分析してみよう。この対立は、貧困の発生責任はどこにあるのかという認識の違いに起因するように思われる。

スポーツ敗者論者は、貧困の発生責任は社会にあると考える。スポーツにおける敗者のように、貧困発生は自由市場経済における原理的必然だからである。そして、発生責任が社会にある以上、当然その解決責任も社会にある。ところで、発生責任が社会にある以上、解決責任とは要するに賠償責任を意味する。すなわち、社会による福祉政策は困窮者に対する償いなのだ。スポーツ敗者論者は以上のように考える。

他方、交通事故論者は、貧困の発生責任は社会にはないと考える。交通事故の場合、その発生責任は社会にも警察にもないのと同様である。ある人が貧困に陥った原因は、家庭環境の悪さかもしれないし、本人の病気のためかもしれないし、不況のためかもしれないし、本人の怠慢かもしれない。しかし、いずれにしても社会には発生責任はない。社会がその人に貧困を強いているのではない。

しかし、交通事故と同様にその解決責任は社会にある。交通事故が起こったら、警察(社会)は実況見分し被疑者を起訴して解決する義務を負う。また、自賠責保険によって補償される。貧困の場合も、生活保護その他の福祉政策を通じて、社会には解決責任がある。

ところで、なぜ発生責任がないのに解決責任が社会に生じるのか。それはこれらの問題を放置すれば、いずれ社会が崩壊するからである。犯罪や交通事故の発生責任が社会にないからといって、放置すれば社会は崩壊してしまう。同様に貧困を放置すれば社会崩壊につながりうる。貧困層の子弟には優秀な人もいるかもしれないし、貧困層の不満によって暴動が起こるかもしれない。いずれにしても、社会崩壊の危険性を高める。つまり、解決責任とは具体的には社会を維持する政策を意味する。交通事故論者は以上のように考える。

償い社会を維持する政策、この両者にはそれに伴う感情が異なる。償いに伴う感情は怒りである。困窮者支援者が「生活保護は当然の権利」と言う時、その背後には償う状況を作った社会に対する怒りがある(しかし多くの人はこの怒りが分からないので、傲慢な印象を受ける)。一方で社会を維持する政策に伴う感情は、何が効果的かという計算である。交通事故防止に関して、道路交通法はドライバーだけでなく、事故時に命を落とす場合が多い歩行者にも交通ルールを課している。交通弱者である歩行者にも交通ルールを課した方が、事故がより起こりにくくなるという計算が背後にあるためだ。同様に、生活保護を論じる時に困窮者に忍耐を求める政策にも彼らは好意的になる。その方がより貧困を減らすのに効果的だからである。例えば、生活保護費をプリペイドカードで管理する案は、単に働きたくない人のモラルハザードを抑止しつつ、困窮者の浪費も抑止でき、一石二鳥であると交通事故論者は考える。しかし、スポーツ敗者論者は、償う相手(困窮者)に忍耐を求めることに「何様のつもりだ、実質的に加害者の分際で」と反発するだろう。

ところで今から10年ほど前に、貧困は自己責任か社会責任かという議論があり、湯浅誠氏(その他の困窮者支援者も)は貧困は社会責任と主張した。彼等のの主張を聞いて、正しいのだが何か違和感を持っていた。そして、その原因は発生責任と解決責任を混同していたことによると今にして思う。つまり、「貧困は社会責任だ」という主張は、純粋に文言だけに注目すると、「貧困の発生責任は社会にあり、償いとしての解決責任も社会にある」という意味と、「貧困の解決責任は社会にあるが、発生責任は社会にはない」という意味の、二つに解釈できるという曖昧さがあったのだ。この曖昧さが違和感の原因だったのだろう。


ミクロ経済学を論じたいが...

このようなすれ違いが両者の利害調整を困難にして、社会的な分裂を深めつつあると思う。筆者個人としては、貧困は交通事故のようなものだと考える。それは原理的な必然ではない。その根拠はミクロ経済学(の純粋交換理論)に求めるのだが、今は日常生活が忙しくて詳しく論じる時間がない。