2012年10月6日土曜日

もう一つの肝心な論点のスルー

時々拝見している濱口先生のブログに、本田由紀先生のリフレ策への疑問が取り上げられてました。それについて微妙な混乱があるようなので、いくつか書かせていただきます。

稲葉先生は次のようにツイートされています。
先生その援護射撃は筋悪です。その程度の反省は既になされています。
それに対し、濱口先生は、どの点が筋悪で、反省とは何か、分からないと書いています。この投稿では、その筋悪と反省について推測して見ます。


リフレ派と所得再分配

濱口先生は、リフレ派の主張が所得再分配の論点を軽視する人に利用されている点について、リフレ派が反応していない点を問題視されています。
そして、仮に雨が降ったとしても、その流れてきた雨水が、いったい誰の田んぼに優先的に配分され、誰の田んぼが後回しにされるのかという、この文章の最大関心事項について、上記文章が主として念頭に置いているたぐいの人々が、こういう状況であるという事実を見れば、その懸念はまことにリアルなものであるというべきでありましょう。

残念ながら、その次元にまできちんと反応している方は、「りふれは」はいうまでもなく、まっとうな「リフレ派」にもいないようです。


リフレ派が所得再分配を軽視する人たちに対して反応しないのには、理由があります。

その理由は、リフレ派を支える論拠が所得再分配と理論的に関係ないからです。北欧のように課税の累進性が強い国でも、アメリカのように累進性が弱い国でも、どちらの国でもリフレ政策は有用性を持ちます。どのような税制度、社会保障制度で所得を再分配するかは、民主主義による意見調整の結果で決まるとしかいえず、リフレ派の立場からこの論点について主張すべきことはありません。


「所得再分配は必要」と言う場合、その根本的な理由は何か

前述において、リフレ派が所得再分配軽視派に反応しない理由を簡単にまとめました。しかし、これだけでは本田先生のツイートをめぐる微妙な混乱は残ったままになるでしょう。

本田先生は、以下の一連のツイートをされています。
景気がよくなるのにこしたことはないが(仮に雨乞い的でない施策がありうるとして)、そうならない場合でも持続可能なしくみ(再分配等)をつくり実施することが必要なのは言うまでもない(言うまでもなさ過ぎてもう言いたくない)。

雨乞いの踊りや呪文以外に実効ある施策があるならやってみてほしい。他方で、景気がよくなることを希う人々の心理的弱さを思う。景気がよくなればみんながそれぞれよくなると期待できるから争う必要も分配に関する面倒な調整も必要ない。それらをスルーしたい人々が経済成長に望みを託す。

富国強兵や所得倍増だけめがけて専心できていた時期とは違って、今は複雑にかみ合った様々な要素・条件のどれを固定して考え、どれを変えうると考えるかに関して、無限に近い順列組合せが可能。実現可能性に即せばもっと選択肢は少なくなるがパズルの複雑性は高い。それを無視したいのが景気回復派。


これらのツイートにおいて、所得再分配軽視派に対する強い怒りが背後に見え隠れしています。この怒りは、所得再分配軽視派に反論しないリフレ派にも向けられているように感じます。一体、この怒りはどこから来るのでしょうか。

所得再分配は必要だと、私も思います。ところで、「必要なのは言うまでもない」とツイートにありますが、どのような理由で所得再分配が必要になるのでしょうか。

私の認識では、二つの理由が考えられます。

A. 自由主義経済は究極的には矛盾を抱えており、必然的に貧富の格差を拡大させる。したがって、所得再分配は必要である。

B. 自由主義経済は究極的には矛盾を抱えておらず、必然的に貧富の格差を拡大させるわけではない。しかし、別の要因によって貧富の格差を拡大させることがある。したがって、所得再分配は必要である。

Aの「自由主義経済は究極的には矛盾を抱えている」という認識には、別個の二通りの考え方が背景にあります。

一つは、マルクス経済学の窮乏化法則を根拠とするものです。こちらはもう、あまり人気がありません。ちゃんとした大学の経済学部でも開講してない方が多いのではないでしょうか。言うまでもなく、旧ソ連の崩壊がマルクス経済学の説得力を失わせました。

もう一つは、もっと単純な考え方です。

「自由主義経済とは競争である。競争とは優勝劣敗、弱肉強食であり、必然的に弱者が生まれる。したがって、自由主義経済は必然的に貧富の格差を拡大させる」このような弱肉強食観です。

いずれの根拠においても、「自由主義経済は究極的には矛盾を抱えている」と捉え、その矛盾を解消するための所得再分配は絶対に必要であり、正義である、そのようにAの立場の人は考えているように、私には見えます。

再び、本田先生のツイートを引用します。
雨乞いの踊りや呪文以外に実効ある施策があるならやってみてほしい。他方で、景気がよくなることを希う人々の心理的弱さを思う。景気がよくなればみんながそれぞれよくなると期待できるから争う必要も分配に関する面倒な調整も必要ない。それらをスルーしたい人々が経済成長に望みを託す。
逆に、景気が悪い現在は「争う必要」があると、示唆されています。これは自由主義経済=弱肉強食観を示すように思われます。

こう考えると、本田先生のツイートに通底する怒りが理解できるのではないでしょうか。つまり、「自由主義経済は必然的に弱者を生むのだから、所得再分配を絶対に行わければならない。しかし、所得再分配軽視派はこの当然の正義を無視しているし、リフレ派は彼らについて言及しない」このような考えが背後にあるのではないか、と推測しています。

それにしても、ツイートで「争う」と出てきますが、経済活動において何を争うのでしょうか。もちろん、ある会社が同業他社と売り上げを競争するようなことを、本田先生は念頭に置かれているのでしょう。でも、それは本当の意味での、何かを奪い合うという意味での、争いでしょうか。


自由主義経済に究極的な矛盾を認めない人々も、リバタリアンではない

一方で、Bの考え方を取る人たちもいます。まっとうなリフレ派もBの考え方を取る人たちです(もちろん私も)。「自由主義経済は究極的には矛盾を抱えていない」と考える根拠は、ミクロ経済学の純粋交換理論です。

詳細は省きますが、「各人が自分の選好に基づいて財を交換すれば、その交換に携わった全ての人の厚生(満足感)を改善させる」 純粋交換理論はそう説きます。究極的な矛盾というのは存在しません。何かを奪い合うという意味での争いも、存在しないのです。

純粋交換理論に置かれている仮定は非現実的に見えます。例えば、経済主体は完全に合理的であらゆる情報を取得できます。また、財の生産や交換に時間はかからずに一瞬で完了します。

確かに非現実的ですが、現実から完全に遊離しているでしょうか。これらの仮定は、現実の経済の姿を究極的に単純化したものです。企業や労働者はある程度は合理的だから、完全に合理的だと仮定する、財の生産や交換はそれほど時間を要するわけではないから、一瞬で完了すると仮定する、このように現実の経済を究極的に単純化します。

究極的に単純化した仮定を置くことで、数学的な明瞭さを得られます。そして、自由主義経済は「究極的には」矛盾を抱えていない、と厳密に数学的に証明することができるのです。

以上のようにBの立場を取る人は、自由主義経済は「究極的には」矛盾を抱えていない、と考えます。じゃあ、何の問題も無いのか。リバタリアンのようにそう考える人たちもいます。しかし多くのBの立場の人は、「自由主義経済では、究極的に生まれる矛盾は存在しないが、別の要因による重要な問題は存在する」と考えているはずです(少なくとも私はそうです)。

例えば、実際の人間は完全に合理的ではなく、全ての情報を吟味するわけでもありません。詐欺的な企業にだまされてしまうかも知れません。そのような事態を防ぐために、労働法や金商法があります。優秀でない人たちの収入は極端に貧しい生活を強い、貧富の格差が市民間の相互不信を招くかもしれません。そのような事態を防ぐために所得再分配があります。

Bの立場の人たちの大部分は、上述のような解決策を認めると思います。ただし、それぞれの制度の具体的な在り方については、経済学から言うことはそれほどありません。それは、それぞれの領域の専門家(労働法学者やケースワーカなど)の意見と、民主主義制度下での利害対立の調整で決まる、としか言えません。

また、純粋に経済的な事象に限っても、自由放任で常に問題ないわけではありません。現実の経済では、将来の不確実性や賃金の下方硬直性、債務契約の名目値性(例えば100万円の債務の元本が、数年後に5%デフレになったからといって5%減ることは無い)などによって、デフレを伴った深刻な不況が生じえます。そのような事態を解決するのがリフレ策なのです。

もう一つの肝心な論点をスルーする弊害

自由主義経済は究極的には矛盾を抱えているか否か、これは意外に肝心な論点です。社会主義といえば貧しい北朝鮮政府ぐらいしか思い浮かばない現在、こんな泥臭い命題に触れる必要があるのでしょうか。しかし、この論点をスルーするために、心理的な対立が生じているという印象を受けます。

例えば、所得再分配に限っても、A,B両者の心理的な捉え方は異なります。Aの人は所得再分配を正義と考え、Bの人は政治的な知恵ぐらいに位置づけます。正義と政治的知恵。例えば、殺人犯を処罰することは正義ですが、それを政治的な知恵と考えている人をどう思いますか。Aの人はBの人に人間的な不信感を持つでしょうし、Bの人はAの人に不当な軽蔑をされていると反発するでしょう。

それだけならまだ良いのですが、より深刻な弊害が生じているようです。

実は、前述の自由主義経済=弱肉強食という世界観から、Aの他にもう一つの考え方が生まれます。

それは、究極的な矛盾があることにあまり倫理的な負い目を感じず、そのような弱肉強食の世界で
強者として生き残ることを肯定する立場です。これは田母神氏の思想と重なります。

より深刻な弊害とは、人間的な不信感により、Aの人が、Bの人を田母神氏のような強者肯定論者と混同することです。そのような状況が誤解を生み、リフレ策の実行を政治的に困難にしているように見受けられます。

稲葉先生が「筋悪」とツイートされている点は、おそらくここにあると思われます。濱口先生の多くのブログ読者に、自分たちはBの人間なのに強者肯定論者と混同させてしまう、そう懸念されているのだと推測しています。例えば、最初の方で引用した記述はそのような懸念を起こさせます。
残念ながら、その次元にまできちんと反応している方は、「りふれは」はいうまでもなく、まっとうな「リフレ派」にもいないようです。
何とも残念な状況です。リフレ策が誤解されることを防ぐために、リフレ派の専門家の話し方を反省すべきかもしれません。その一つの方策が、もう一つの肝心な論点をスルーしないことと私は考えます。稲葉先生がおっしゃる「反省」も、おそらくそのようなものでしょう。

正しい主張を理論的に展開するだけではダメで、その主張に人間的な不信感を持つ人たちに対し、その誤解を解くように努力する必要があるのです。

そうすれば、田母神氏のような方がリフレ派を支持しても、話題にもならずにスルーできる状況が訪れるでしょう。


(履歴)
2012/10/8
論旨が不明瞭な部分があったので、いくつか変更を加えました。